杜に想ふ
祈りの継承 涼恵
令和7年05月12日付
5面
先月、「百年の祈り」と題し、昭和百年に際して想ふところを綴ったのだが、書き切れなかったこともあり、今月も続けて筆を執らせていただきたい。
つい先日、五月二日、第六十三回式年遷宮の幕開けとなる御杣山の山の口に坐す神に伐採と搬出の安全を祈る山口祭が執りおこなはれた。「物忌」と呼ばれる小学生の児童らが鎌を持ち、草木を刈り始める儀式をおこなった。瑞々しい命をその身に宿してゐる童男も童女も装束を身に著け神職に混ざり立派に神事を果たす姿は何とも凛々しく清々しいもので、神代から続く日本の祭りの本質を感じられた。
思ひ返せば、昭和から平成へと移るとき、社会には不安と混乱が渦巻いてゐた。悲しいことに、第六十一回式年遷宮の頃にも全国の神社では放火事件や破壊行為が相次いだといふ。それはまるで時代の変はり目に生じる歪みのやうだったと聞く。だが平成から令和へ移らうといふ時期の第六十二回式年遷宮では、同じ混乱は起きず、むしろ人々は静かにその時を迎へた。その理由の一つに、昭和から平成へと、昭和天皇から上皇陛下へと重ねてこられた「祈り」の力が反映されたことがあるやうに感じてならない。昭和天皇は戦禍の時代をも越え、国民とともに祈りを重ねてこられた。やがてその祈りは、上皇陛下へ、そして今上陛下へと受け継がれてゆく。幾度となく災害の地に足を運ばれ、被災者に寄り添はれ、ひとりひとりの苦しみに手を合はせられた、祈りの継承。その積み重ねこそが、国の根柢に静かな安寧をもたらしたのではないだらうか。
祈りとは、言葉を超えたものだと思ふ。大地に根を張る樹のやうに、見えないところで深く広がり、静かに確かに時を超えて息づくもの。昭和百年とともに、戦後八十年でもある今年、「今の私たちがここにゐるのは、過去を生きた人たちがゐたから」といふ感覚を忘れたくない。
一本筋が通った真っ直ぐな祈りとは、何も特別なことではなく、ふと香る記憶のやうなものではないだらうか。遠く離れた田舎の祖父母が抱っこしてくれた時の肌の温もり、アナログレコードに針を落とした音、古びた喫茶店の紅茶の湯気が立ち上るゆらめき、万年筆で書かれた縦書きの手紙に滲んだインク、家族団欒の笑ひ声……祈りとは、さういふ時間と地続きにあるやうに思へてならない。
時代は移り変はりゆく。けれど、人が人を思ふ気持ちや、祈りの本質はきっと変はらない。祖父母が手を合はせた神社の鳥居のなかに、私たちは今も立ってゐる。かつて昭和を生きた人々がさうであったやうに、令和を生きる私たちもまた、日々の暮らしのなかに小さな祈りを重ねてゆきたい。
何千年も変はらず続けられてきた「祈りの継承」が、千三百年以上続く式年遷宮を通して伝はってくる。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)
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