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杜に想ふ 株神の御縁 神崎宣武

令和7年05月19日付 5面

 三月初旬に、郷里(岡山県)の住所宛に一通の手紙が届いた。差出人は横浜市在住のUさん。まったく知らない女性であった。細いボールペンの横書き文字が並び、名前の後ろには「(七四歳)」と記されてゐた。
 私が宮司を務める宇佐八幡神社(井原市黒忠の氏神社)に「お参りをしたい」といふ。そして、その理由が連綿と書かれてゐた。
 Uさんの父上(明治四十三年生)は、家系が黒忠の竹井常陸守春高に繋がる、と常々話してゐたといふのだ。竹井常陸守春高とは、中世末の小笹丸城主である。城とはいへ小規模な山城で、吉備高原上ではその山城を中心に開けた村が少なからず存在する。それは、現在の「大字」に相当するもので、ここでは近世を通して黒忠村といった。その村の中に、また「小字」に相当する集落が散在する。
 そこでの家々は、いふなれば半農半士。非常時には武器を携へて城にかけつけるが、平常時には農業に従事してゐたのである。
 その集落ごとには産土荒神を祀ってきた。その表字(産土)のとほりに開墾の守護神である。つまり農業神。そして、もう一方で血縁の同族神として株神を祀ってきた。その株神とは、摩利支天神。いふなれば、士分の守護神である。
 いくつかの株の中で竹井常陸守春高に繋がってゐるとすれば、当然ながら竹井株といふことになる。その竹井株は、二株があり、現在も株祭りを継続してゐる。が、Uさんの父上はどちらに繋がるのだらうか。
 その手紙によると、「父と母は満洲の動乱期に互ひの配偶者を失ひ、苦労の末に年齢差があったが再婚した。母にはすでに三人の子供がゐて、私はその後に生れた娘。中学生の時に両親が離婚して、その後の父の消息は知らない」(文体は整理してゐる)。しかし、母が父から岡山の先祖のことはよく聞いてゐて、それを書いたメモも残ってゐたさうだ。Uさんは、「この年齢になって、岡山に思ひを寄せてゐた父のことを思ひ出すやうになった」、といふ。
 お参りは四月十六日にしたい、といはれたが、私は、あいにくと東京での仕事が入ってゐた。それで、総代長の大元氏と婦人総代長の佐藤さん、二つの竹井株の代表である教雄氏と訓示氏に相談した。四人とも、私が留守でも歓待しよう、と言ってくれた。
 その当日、約束どほりにUさんがおみえになった。御主人も一緒だった、といふ。
 まづ、氏神に詣で、さらに二つの株神にも詣でた。父上が生まれた家は絶えてゐたが、その地所にも参られた、といふ。
 後日、Uさんからお礼の手紙をもらった。訪ねてよかった、親孝行ができてうれしかった、と。総代長はじめ皆さんの対応が行き届いてゐて感激した、とも書かれてゐた。
 かうした「先祖返り」といふ御縁もあるのだ。私は、あらためて株神の存在を大切にしたい、と思ったものである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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