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大嘗祭における聖性と聖物の措置 〈前篇〉 皇學館大学特別招聘教授 櫻井治男

令和元年05月27日付 6面

 平成から令和への御代替りが、カウントダウンのイベントとして放映される様子を目の当たりにすると、皇居の宮中三殿並びに宮殿「松の間」でおこなはれた諸儀の厳粛さが一層際立って印象づけられる。譲位された前帝への感謝と新天皇への奉祝の心が、五月一日の午前零時を期して一転するものではなからうし、二つの想ひが重なりあって御代の移りを過ごすことにならう。御代替りは一瞬ではなく、一定の幅を持った時間帯であり、その中で退位と即位にかかる諸儀・諸事が、新たな社会状況を見据ゑ、先例を踏まへつつ、一定の秩序と手順を以ておこなはれることが重要となる。このことにより、儀礼時間の緊張が安心・安堵の日常時間へ移行し、日本の社会統合の象徴的意味が人々に刻印づけられてくると見られよう。

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 皇位継承にかかる一連の諸儀において、践祚の儀、即位の礼、大嘗祭の三儀式が重要な枠組みを形づくってきたことはいふまでもない。皇位の象徴である神器を受け継がれる「践祚の儀」は、去る五月一日に「剣璽等承継の儀」としておこなはれた。国の内外へ即位の事実を公にされ、祝意を受けられる「即位の礼」と、新天皇として御親ら最初に斎行される新嘗の祭事である「大嘗祭」は、それぞれ十月二十二日と十一月十四・十五日に予定されてゐる。なかでも大嘗祭は、その基本が「稲の祭り」としての長い文化的背景を有するがゆゑに、斯界においても一方ならず関心が高いことであらう。平成二年の大嘗祭では、「斎国」として卜定された悠紀地方(秋田県)と主基地方(大分県)の方々をはじめ、祭儀の執行に必要な多種多様な品々の準備・調製にあたる人々に神社関係者が随分寄り添ってこられたことも記憶に新しい。
 ところで、過去に悠紀・主基の斎田に選ばれた地域では、その記録作成や記念の建碑が見られ、大嘗祭を一過性の出来事ではなく、地域の大切な歴史として記憶にとどめる試みがおこなはれてきた。それは〈斎田〉といふ表現に表れてゐるやうに「斎」すなはち、極めて清浄性の高い聖性を帯びた祭りの場の一翼を担ったからである。そこは単に神事で用ゐられる米穀を生産する田圃といふ以上に、大嘗祭の中心儀式がおこなはれる大嘗宮の悠紀・主基の〈祭殿〉とパラレルな関係となってゐる。

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 私たちが、今日に続く大嘗祭の基本的儀式内容を窺ひ知る律令制下の法制・儀式次第書を参考に、儀礼と時空間の聖性といふ観点で見ると、この祭儀は唯一の「大祀」であり、物忌みに当たる「斎」の期間は一カ月となってゐた(神祇令)。中祀以下の祭りは数日内であるから、大嘗祭の重要度が知られよう。また「斎」は、致斎を内に含む散斎といふ日本的特色を有してをり、構造的には〔前斎〕〔致斎〕〔後斎〕と三段階の斎忌期間から構成されてゐる。そして、〔致斎〕の日(十一月の丑寅卯日)へと近づくにつれて、儀礼空間が大嘗宮の悠紀・主基両殿へ集約されるといふ特性がみられる(岡田重精『古代の斎忌』参照)。悠紀・主基両国の抜穂田で収穫された稲は、大嘗祭の神饌調備等をおこなふ臨時斎場の「(京都)北野」に設置の悠紀・主基両院に納められるので、結局のところ大嘗宮・北野斎場・斎田は、それぞれの場とそこに設けられる諸施設建物が、とくに聖性を帯びて連動し合ふ儀礼空間の構成要素となってゐると理解される。このことは、斎田・斎場の卜定、建物・施設の鎮祭、八神の祭祀などの儀式がそれぞれにおいておこなはれることからも肯首できよう。

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 五月十三日には大嘗祭斎田点定の儀がおこなはれ、悠紀・主基地方として栃木県と京都府が選定された。私たちは、今後、大嘗祭当日の儀式次第や準備段階の諸事、すなはち前掲の〔前斎〕〔致斎〕期間の内容について関心を高めることとならうが、祭儀の構成上忘れてはならないのは〔後斎〕のあり方で、儀礼における首尾の一貫性に注視する視点が必要となる。
 大嘗祭の主たる儀礼(悠紀・主基両殿の儀)が終了すると、大饗をはじめ「斎忌」の状態を解消する「解斎」の諸儀がおこなはれる。その主な事柄は、祭儀がおこなはれた場の鎮祭儀礼であり、仮設的に設けられた大嘗宮の施設、祭器具などの処置である。『延喜式』(巻七・践祚大嘗祭)によれば、十一月卯の日の祭儀が終了した翌辰の日、「大嘗宮殿を鎮め祭れ……訖て即ち両国の民をして壊却せしめ、後に鎮祭の所を平らげ、訖ばすなはちその地を鎮めよ」とあり、また北野斎場の雑舎も同様に壊却される。さらに斎国については「大嘗祭畢らば、禰宜卜部を差して両斎国に遣はし、御膳神八座を祭らしめ、すなはち解斎をなし、明くる日斎場を焼却せよ」と定められてゐた。建物の破毀、斎場の焼却とは一見過激とも思はれようが、これが祭儀終了の仕方であり、換言すれば脱聖化の積極的な方法といふことになる。

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 このやうな破壊、焼却行為がおこなはれるのは古代的なことであるとか、費用的に無駄な行為といふ現在的感覚で評価するのは適切さを欠くであらう。祭儀において用ゐられた道具や場が、終了後どのやうに取り扱はれてきたかを窺ふと、聖性を帯びた場所や品々がいかに慎重に対処すべき対象であるかが見えてくる。これは神社の祭りの場合のみならず、広く民俗行事や仏教儀礼においても認められ、通文化的な宗教儀礼の特徴と言ひ得よう。
 聖性との分離、聖物の措置方法について、筆者なりに捉へてみると、①毀却(壊却・破却)、②焼却、③埋納、④流棄、⑤分配、⑥存置(放置)といふパターンがあるかと思ふ(拙稿「聖物の措置―毀却・焼却・埋納・流棄そして存置―」、『お伊勢さんとムラの神々』所収)。これらは相互に関係することも見られ、①の後に②や③がなされる場合もあり得よう。①から⑤が積極的な措置方法であることに比して、⑥は消極的な行為である。個々の事例を詳しく掲げることはしないが、正月の左義長(ドンド)行事に見られるお焚き上げやかつての七夕流し、お盆の精霊流しや大祓行事での人形・幣の流棄など身近な場面での事柄が想起される。埋納について、伊勢の神宮では遷宮ごとに奉献された御装束神宝は、古くは神域内に埋められてゐた。また現在も祭儀に用ゐられた土器類は破却後に土中へ納められるといふ。
(本紙論説委員)
〈後篇に続く〉