杜に想ふ
和して同ぜず 涼恵
令和8年03月09日付
4面
この言葉は、孔子が語ったものとして『論語』に記されてゐる。歳を重ねるごとに、この言葉の意味の深さを噛み締めてゐる。人と和やかに交はりながらも、無理に同じであらうとはしない。この教へは、もしかしたら対人関係における極意を示してゐるのかもしれない。
人は誰しも理解されたいと願ひ、同時に自分らしく在りたいと願ってゐるのではないだらうか。
筆者は学生時代、同級生たちに馴染めず、人と向き合ふのが怖くなり、自分の個性さへ否定して、不登校になり殻に閉ぢこもってしまった時期がある。そんな過去の私に今の自分が伝へられることがあるとするならば、和とは調和であり、「和」を「調」へてゆくこと。皆が同じになることではなく、違ひを抱へたまま、それでもともに歩むことだと伝へたい。それは孤立ではなく、静かな自立。人と調和しながらも、自分の心の神域を守ること。風に揺れる草木のやうに、しなやかに。根を深く張る木々のやうに、強く優しく。
「同じ」ではなくても、「分からうとする」ことはできる。分かるとは、ある意味で、分けるといふことでもあるのかもしれない。大切なのは、強く主張することよりも、澄んだ心で対話をすること。感情が揺れた時は、その揺れをなかったことにせず、丁寧に抱きしめる。傷つきやすい自分も、迷ふ自分も、責めずに受け容れる。その静かな自己信頼が、他者との調和を可能にするのだらう。さうすることで、相手もまた安心して本音を語ることができるのではないだらうか。
自分を大切にする者は、他者も大切にできる。自分の声に耳を澄ませる者は、他者の声にも敏感でゐられる。もしこの姿勢を日々の対話に活かすことができるならば、人間関係の多くはより穏やかなものとなると信じてゐる。学校でも家庭でも職場でも、意見の違ひは避けられないかもしれない。しかし、この道理を胸に置くとき、違ひは衝突の種ではなく、学びと成長の源となる。
鳥居をくぐる時、神前に手を合はせる時、人は日常のざわめきを少しだけ外に置き、心の奥の声に耳を澄ませる。嬉しい報告を携へる者もゐれば、言葉にならぬ不安を抱く者もゐる。神社はただそっと人々の祈りをそのまま受け止め、善悪や立場を超えて、違ひを抱いたまま、ともに在る空間だと思ふ。
調和とは、音を重ねることに近い。それぞれの楽器が違ふ旋律を奏でながら、一つの響きを生む。違ひがあるからこそ、ハーモニーや奥行きが表れる。
人とともに生きるといふことは、水と水が交はるやうなもの。流水は腐らず。流れることで、なほ澄んでゆく。
和して同ぜず。きっと、その在り方は、神社の佇まひや、神職の歩む道にも通じてゐるのだらう。(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)
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