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杜に想ふ 五年だけの建国記念祭 植戸万典

令和8年02月16日付 5面

 八十年の歳月は、長いと云ふべきか短いと云ふべきか。昭和十五年の紀元二千六百年を機とした神祇院官制もわづか五年余りで終戦により廃止され、改正宗教法人令で「神社」も宗教法人となり、昭和二十一年二月三日附で民間の神社本庁が設立した。二千六百年と比較すれば短いが、明治以来の制度下よりは長い期間を、神社は在野の立場でその祭祀に携はってきたことになる。
 戦後すぐの本庁庁規は、宗教法人法施行で昭和二十七年に新たに制定された新庁規とは異なり、神社祭祀も直接定めてゐた。当初の規定には、祈年祭や新嘗祭などの大祭のほか歳旦祭をはじめとした中祭、また神嘗祭遙拝といった恒例式も見え、官制時代の祭祀令を踏襲してゐた。しかし、早くも翌年の第二回評議員会で庁規は改正され、祈年祭と新嘗祭は「春祭」と「秋祭」といふ名称に、中祭も「元旦祭」と十月十七日の「神宮祭」のみになる。その改正は、国家の定めた従来の祭祀制度から脱却することや、神宮を本宗と仰ぐ趣旨を明らかにすることなどにあったといふが、さうした積極性は認めるとしても、神社の国家との分離が求められてゐた占領下ではどの程度それが神社界の本音だったのか割り引いて見る必要もあらう。
 そのことを窺はせるのが、翌昭和二十三年本庁通達第三十五号「国民の祝日当日神社に於ける祭儀取扱に関する件」だ。これは同年制定の祝日法で定まった祝日の当日祭を斎行することを達示したものだが、当然その祝日には天皇誕生日や文化の日、さらには春分の日、秋分の日など、官制時代では天長節祭や明治節祭、春秋の皇霊祭遙拝を執行してゐた日も含まれてゐた。祝祭日と神社の祭りとの不可分性や、公共の福祉を祝はうといふことも意識してゐたにせよ、それを建前に従来の祭祀を絶やさないこともできたのだ。
 実際、主権恢復の後、新庁規となった折に独立した祭祀規程における大祭の「春祭」と「秋祭」は、昭和三十一年の改正で、名称の下に(祈年祭)や(新嘗祭)と附されるやうになり、一方で「元旦祭」も「国民祝日祭」として他の祝日と統合された。云はば本庁の定める神社祭祀は、祭祀規程と「国民の祝日当日神社に於ける祭儀取扱に関する件」とで官制時代を継承してゐたやうに見える。昭和四十一年には祝日法の改正により国民祝日祭に「建国記念祭」も加はり、紀元節祭も形の上では継承した。ただひとつ、元始祭だけが残されることになった。
 その五年後の昭和四十六年に改正神社祭祀規程で中祭に官制時代と同じ歳旦祭や元始祭などが正式に復活するに及び、同年本庁通達第八号の「国民の祝日当日神社に於ける祭儀取扱に関する件について」により国民祝日祭は廃止された。長かったか短かったか、この祝日祭を置いた変則的な期間が、戦前の祭祀と今の紀元祭や天長祭とを繋いでゐるのだ。
(ライター・史学徒)

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