杜に想ふ
稽古照今 涼恵
令和8年02月09日付
5面
日本における芸能の成り立ちは、元来、神事であった。人は舞ひ、音を奏でることで神を迎へ、時に鎮め、祈りを捧げてきた。芸能とは本来、誰かに見せる以前に、神前に捧げられる行為だったのだと、神職でありながら唄ひ手としての活動を続けさせていただくほどに、その実感は深まる。
神事芸能や奉納芸能は、華やかさよりも静かな祈りを宿し、音が消え、歌舞が終はった後に、なほ神前に漂ふ余韻こそが、神明奉仕としての本質なのではないかと思ふ。神と人とのあはひに立ち、ただ捧げる。その素朴で奥ゆかしい営みを、これからも大切に紡いでゆきたい。そして神前に捧げた祈りは、必ず人の心にも映る。
一昨年と昨年、観世流シテ方能楽師・武田宗典氏と御縁をいただき、能登への慰問公演や、阪神・淡路大震災三十年記念式典などで御一緒する機会に恵まれた。
神楽と能は、その様式も歴史も異なるが、神前に立ったとき、不思議なほど同じ方向を向いてゐることに気付かされた。どちらも、観る者のためだけに在るのではなく、まづ神に捧げられる芸能であるといふ点で通じ合ってゐた。
能舞台の正面にある鏡板の存在。描かれてゐる老松は常緑すなはち永遠性・神聖さの象徴であり神様の依代。「ここに神が降り、舞台を御覧あそばされる」といふ前提の場所であり、観客は松を通して鏡(カミ)を見る。神前に奉置された鏡にも通ずる。橋掛かりもまた、幽世と現世を結ぶ道であり神社の参道と同質の意味をもつ。その構造からも能はもともと神に奉納する芸能だといふことがよくわかる。
能を大成した観阿弥・世阿弥父子は、芸の根柢に神事性を見据ゑてゐた。『風姿花伝』において世阿弥は「花を知りたくば、まづ種を知ること。花は心、種はわざ(芸)である」と解く。
花は、観客の心に一瞬立ち現れる魅力で、時・場・人によって現れては消えるもの。花は枯れても種があれば、稽古と自己修養の果てに自然にまた咲くことができる。
武田氏との折々の会話のなかで、稽古の大切さについて語り合ったことが、今も印象に残ってゐる。稽古とは、ただ型を反復するだけでなく、声を発するとき、「今日は喉の奥の右側の開きが甘い」「鼻の通りが詰まってゐる」「呼吸が浅い」「背中に力が入ってゐる」「この辺りが冷えてゐる」と、自らの身体の声に細かく耳を澄ます。その小さな違和感に気付き一つ一つ調へてゆくこと。
稽古照今――古きを学び、今に照らす。その姿勢は、演者の心の濁りも奢りも透かしてゆく。神前に差し出された透明な祈りは、そこに居合はせた人々の呼吸や沈黙と重なってゆく。華やかさの奥にあり、身を削いだ先に在るものをこれからも捧げてゆきたい。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)
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