文字サイズ 大小

杜に想ふ 案内板 神崎宣武

令和8年03月23日付 4面

 谷中(東京都台東区)に小さな仕事場を設けてから約三十年になる。
 ここ谷中には、六十カ寺以上がある。それゆゑに大型のビルが建ちにくいところで、都心にありながら閑静な地といへるだらう。散策するにも適したところ。その風情を、本欄でも何回か紹介したことである。
 海外からの観光客も珍しくはない。それも、主には欧米系の人たちで、騒がしくはない。いふところのオーバーツーリズムの弊害は、ここでは皆無に等しいのである。
 三々五々に歩いてゐる彼らが、時々に立ち止まってゐることがある。寺社の門前に立つ案内板(由緒板)を読んでゐるのである。
 それは、台東区教育委員会が立てたもので、和文と英文が記されてゐる。スマートフォンで英文を撮影してゐる人がゐるが、それで母国語に翻訳できるやうである。
 私は、興味もあるので、立ち止まってそれを眺めてゐる。幸ひなことに、左足を痛めてから杖をついての歩行であるから、しばし立ち止まるのも不躾にはならないだらう。
 たとへば。五丁目の観音寺の門前には、「赤穂浪士ゆかりの寺」と題した案内板が立つ。この観音寺は、古くは長福寺といった。その長福寺の時代、とある。
 「四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった」(文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のこと)。
 「文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという」。
 そして、その案内板の山門をはさんでの反対側(本堂に向っての右側)には、四十七士の慰霊塔が立つ。大きな石塔で、上部に四方仏を表はす梵字、その下方には陀羅尼経が刻まれてゐる。そして、宝永四年(一七〇七)三月吉日との刻字もある。
 いちど、イタリア人の男女から質問を受けたことがある。赤穂浪士の討入りは正義だったのか、それがなぜ切腹か、と。ちなみに、案内板には、そこまでの詳しい記述がない。そして、それを解説する私の語学力も十分とはいへず、冷や汗をかいたことであった。しかし、さうした関心を寄せる人がゐることは、うれしいことである。私たちも、真摯に対応すべきであらう。
 なほ、この種の案内板は、台東区の至るところに立ってゐる。とくに、現在につながるものは、下谷区と浅草区が合併した昭和二十二年(一九四七)に歴史的文化財の保護と周知を進めるためにはじまった、といふ。劣化にともなって随時交換されてきたし、訪日観光客にあはせた英文表記も定着してきてゐる。高く評価すべきであらう。
 惜しむらくは、日本人が立ち止まる割合が少ないやうに思へる。若者たちに関心をもってもらひたい、と願ふところである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

オピニオン 一覧

>>> カテゴリー記事一覧