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杜に想ふ 「聖地」を巡って想ふ 植戸万典

令和8年04月27日付 5面

 東京駅から高速バスで一時間少々、辺疆で古来軍神を祀ってきた香取神宮への道も今やかつてのやうには遠くない。以前その例祭に参列したのは、前日までの雨が霽れて青空が澄み、花木の色も美しい日だった。鹿島神宮例祭参列も思へば秋晴れだったので、参拝の旅路には恵まれてゐると自負してゐる。
 『延喜式』では伊勢と共に神宮号で呼称された香取・鹿島両宮は、午年ごとに斎行の式年祭で水上を御座船が渡御する。明治時代に再興した船の神幸が古くはいつからおこなはれてゐたのかは不明だが、『常陸国風土記』に見える鹿島神宮の由緒のひとつには毎年船を造って奉ってゐたことが窺はれる。利根川の東遷や干拓などのために今では霞ヶ浦にその面影を偲ぶくらゐだが、かつて両宮の間には香取海といふ内海が広がってゐた。その肥沃な海に浮かぶ船はさぞ勇壮なものだったらう。
 江戸時代には文人墨客らが、霞ヶ浦を舟で渡り、両宮と、その祭神と共に国譲り神話で登場する岐神を祭神とする息栖神社を加へた所謂「東国三社」を訪れてゐたさうだ。また関東以北の人々には、伊勢へ参宮の後に必ず「下三宮詣り」などと称して東国三社に巡拝する習慣があったとも、現在ではさまざまな旅行案内でセット化して語られてゐる。
 鹿島神宮宮司を務めた東実の著作にも伊勢参宮の前後におこなふ鹿島・香取両宮参拝や東国三社詣りへの言及は見えるものの、文献で調べられる限りそれが参宮後の禊としての「下三宮詣り」だと流布するやうになるのはどうも昭和四十年代以降、第六十回神宮式年遷宮の頃からと思はれる。東国三社を一体のものとしたり、それを伊勢参宮と一連のものとすることは、数多の世界/日本三大○○が世に溢れてゐることにも通じてゐよう。
 さうしたセット化によって展開される聖地巡礼については平山昇氏の近著『戦前日本の「聖地」ツーリズム』に詳しい。こんにちの斯界では神社を「聖地」と表現してもなんら疑ひも抱かれずに通じるが、明治時代にその言葉はキリスト教と結びついてゐた。それが日蓮主義を経て日蓮ゆかりの地に用ゐられるやうになり、昭和を迎へると関西私鉄の営業努力とも同期して皇室ゆかりの神社や天皇陵まで聖地と称され、そこを巡るツーリズムが広まる。その過程では明治神宮創建も大きな意味を有し、例へば橿原神宮は伊勢・明治と並ぶ「三大神宮」であるとして地位の向上が図られた。また西行の作として知られる和歌「かたじけなさに涙こぼるゝ」も、参宮者が知識がなくとも堂々と語れるマジックワードとして定着する。さうして「聖地」での体験が国民に共有されると、やがてそれは正義の力を持ち、楽しかった旅行はナショナリズムの同調圧力を強めるものとなったのだ。
 だが参拝といふ行為は、まづ祭神へ向ける思ひこそが本義だらう。それは舟で霞ヶ浦を巡った時代も辺疆への道が近くなった現代も同じはずなのだが。(ライター・史学徒)

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