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杜に想ふ 一度止まる 涼恵

令和8年04月13日付 5面

 春の麗かな朝の光が窓を染める。カーテンが揺れ、小鳥たちは今咲いたばかりのお花の香りを知らせるかのやうに囀る。
 季節の巡りを感じる時、何気ない日常のなかに、春には春の、夏には夏の愉しみがあることを思ひ出す。今年も桜を愛でることが出来たことが、たまらなく愛ほしい。
 ここ最近の世界情勢やニュースを見てゐると、正しさとは何だらうと、考へ込んでしまふ。さまざまな立場や価値観、そのどれもが、それぞれの理由と正義に基づいて動いてゐるやうに見える。
 集英社の国語辞典によれば、「正しい」とは道徳・真理・規則・規準などにかなってゐて、間違ってゐない。ゆがみ・乱れなどがなくてきちんと整ってゐる。と、ある。
 正しい・正しくないを判断する基準は人や状況によって不確かなものだらう。一つの正しさだけで世界を測らうとすると、無理が生じるやうに感じる。きっと、幾つもの正しさが重なり、ズレながら存在してゐる。
 正しいとは、一度止まると書く。漢字の形から見ると、正しさとは静のなかに見出すものなのかもしれない。
 神職の階位には「浄明正直」といふ段階があるが、この順序にも注目してみたい。正しさの前に素直であること。正しさの上に明るさがあること。さらに尊いとされる状態は浄らかであること。
 浄・澄んで。明・よく見る。正・基準に照らして判断する。直・まっすぐおこなふ。
 恐れや利害によって、淀んでしまふ人間の弱さ、明かりが不十分だと、見えてゐる範囲が偏ってしまふこともあるだらう。自分の正しさを強く確信してゐるときほど、実は“止まれてゐない”のかもしれない。
 自戒も含め、何が正しいのかと問ふ前に、自分はどれだけ澄んでゐるだらうか。どれだけ明るく見えてゐるだらうか。素直に行動できてゐるだらうか。その問ひを持ち続けてゐたい。
 現代の対立を眺めるとき、この順序が逆転してゐるやうにも見える。時に人は正しさを掲げ、それを支へるために情報を選び、感情を強めていく。もしかすると誤ってゐるのではないかと立ち止まり、考へ直したその先にこそ、正しさは存在するのだらう。
 一と止まる。そのわづかな間に、人は他者の痛みに触れ、己の内に潜る。そこに生まれる逡巡は、正しさの芽であるのかもしれない。溢れる情報と主張のなかでは、きっとどちらが正しいかを判断することよりも、どれだけの者が、自分の価値観や正しさを一度止まって見つめることができるかが大切なのだと思ふ。
 大祓詞が示すやうに、人は過ちを犯すものでもある。だからこそ、対話をする姿勢、過去に縛られず絶えず今に始まる関係を尊重したい。立ち止まる時間が、他者への理解と柔らかさにつながるやうに。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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