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杜に想ふ 神社の存在 神崎宣武

令和8年08月24日付 5面

 文庫本を二重に並べたり積み上げたりしてゐる乱雑な書棚。その隅に、山本周五郎の文庫本が四冊ある。『青べか物語』『赤ひげ診療譚』『さぶ』、それに『新潮記』。何気なく、『新潮記』を取り出した。その『新潮記』だけは、どうも記憶が乏しいのだ。それは、平成二年(一九九〇)の六刷であるから、三十年以上も前のことになる。読み直すことにした。
 登場人物や関係事件も多く、少々むつかしい内容でもある。幕末の動乱期、高松藩内も尊王佐幕に二分されるとき、一人の青年(早水秀之進)が尊王派の使者として本枝不離の関係にあった水戸藩へ密使に立つ。その道中や水戸での難儀をくぐりぬけることで、青年秀之進は偉丈夫に成長。その半生と世情を描いた小説である。
 小説ではあるが、その時代でありながらも日本人ならではの、日本列島ならではの不変の「しきたり」について、山本周五郎は蘊蓄をかたむけてゐるのである。
 そのなかで、日本人の宗教観についての語りがある。幼児から通しての親友(太橋大助)との会話。会話とはいふが、秀之進のほぼ一人語りである。
 それは、「日本人のなかでは宗教が正しい発達をしない、……」といふ大助の問ひに答へての発言である。
 「西行の作だと伝えられる歌に、なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるるとある、なんの約束もなくして無念無想に低頭できる神社の存在、……宗教としてこれほど純粋なものが他にあるかね」
 「人間の力で打ち克つことの困難な、苛烈な現実から救いを求めるところに宗教の起源はあると思う、だからその国土の自然的条件に恵まれないところ、社会状態が持久的に安定しない処では宗教の伝播が旺んだ、精しくは云えない、日本はその点でずいぶん違うんだ、(中略)これは日本の気候風土の特徴なんだ、周期的に凶作がくるけれども、最大多数の国民が飢えるほど決定的ではない、では余剰して国民の多数を富ませるだけ有るかというと、もちろんそれほどの持続的収穫は望めない、要するにやや不足という状態が連綿と続いているんだ」
 「この二つのうえに豊富な自然の美がある、春の花、秋の紅葉、雪見や、枯野や、蛍狩り、時雨、霧や霞、四季それぞれの美しい変化、山なみの幽遠なすがた、水の清さ、これらは貧富の差別なく誰にでも観賞することができる、夏の暑さも冬の寒気も、木と泥と竹と紙で造った簡易な住居で充分に凌げる、……こういう経済地理と政治条件の下では、どうしても宗教に救いを求めなければならないという状態は有り得ないんだ」
 何の拘束もなく、誰もがいつでもどこの神社にも参拝できる。その「宗教にあらざる神髄」の尊さを説いてゐるのである。
 私は、古びた文庫本をなでて、山本周五郎氏をも讚へたものである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)

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