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杜に想ふ 大和の国のまほろば 植戸万典

令和8年08月31日付 5面

 大和路の匂ひに誘はれて旅に出た。移動も楽しめば旅であるとの精神に従って在来線で関ヶ原を越え、列車の揺れも乗換への時間も味はひ尽くした。古代史専攻の身からすると気が付けば寺と神社と遺跡ばかり巡ることになりかねない県ゆゑ、この旅路ではそれだけでなく、クラシックホテルで子鹿の鳴き声に起き、大和郡山の近世城下町を訪った。
 郡山城の石垣は、墓石や礎石、地蔵像などの転用石が使はれてゐる。つくづく寺や遺跡からは逃れがたい地だ。安土桃山時代に関白秀吉の弟秀長が入城して築いたそれは、後の江戸時代に長期に亙り当地を治めた柳沢家の藩政下にも引き継がれた。現在の本丸跡には藩祖柳沢吉保が祭神の神社が建つ。やっぱり神社からも逃れがたいやうだ。
 郡山城下の町中には、秀長の菩提寺として春岳院が残る。正確には、元々菩提を弔ってゐた寺院が京都へ移ったため、墓所や位牌の管理が託されて現在に至る仏閣だ。いはゆる大きな観光寺院ではないものの、秀長関連の世間的な活況の追ひ風も受けて令和に堂宇の大改修が成ってゐる。いささか前のめりではあったが檀家による観光客へのボランティアガイドも叮嚀で、地元に愛される古刹であり秀長といふ人物なのだと感じ入った。
 今よく知られてゐる豊臣秀長肖像画もこの春岳院の所蔵だ。束帯姿に凛々しい面立ちの像はしかし、他の絵のやうにいかにも秀吉と兄弟なのだと感じる顔貌で描かれたものとはだいぶ異なってゐて、むしろどことなく神像を思はせる。天明八年(一七八八)に秀長の二百回忌が藩主柳沢氏によっておこなはれた際に新調されたものださうだ。
 けれども秀長は天正十九年(一五九一)の歿である。天明八年では二百回忌にちょっと早からう。実は、天明年間は全国的に飢饉の時代だった。浅間山の噴火による冷害は関東以北が中心だが、風水害もあって打ち壊しは各地へと波及してゐる。かの御所千度参りもこの時期に生じたものだ。大和国にも影響があり、秀長の二百回忌法要はさうした人心の荒廃を鎮める意図も含んでゐたのである。
 さう考へると、どこか神像のやうに見えた秀長像にも得心がゆくといふものだ。近世を通じて藩主が変はっても最初期の城主が敬愛され続けてゐるといふ例は多い。郡山の地で敬はれた秀長は、飢饉といふ災害でも祈りを向ける表徴とされ、それにふさはしい容姿で描かれたのではないか。まあ、これが狩野派絵師の画風だと云はれればそれまでだが。
 結局かうして古代ゆかりの場所でなくとも歴史だの信仰だのを辿ることになってしまふのは因果なものだ。さうかうしてゐるうちにまた奈良には世界遺産が増えた。世界遺産か否かでその本質的価値が左右されるものではないが、大和路への旅に誘ふ匂ひはますます芳しくなるばかり。まだまだ寺と神社と遺跡は巡らざるを得ないらしい。
(ライター・史学徒)

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