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杜に想ふ マルロー歿後五十年 山谷えり子

令和8年09月07日付 5面

 稲刈月。朝夕の風に秋を感じ、豊作を祈ってゐる。
 神仏に分つ栗飯匂ひけり美柑みつはる
 さて、フランスでは今年から来年にかけて、アンドレ・マルロー歿後五十年の記念行事がおこなはれてゐる。マルローを知らぬ人も多くなったかと思はれるが、ド・ゴール政権時代、長く文化大臣を務め、パリの街を磨きあげ、「国家予算の一パーセントを文化に」(日本は現在〇・一パーセント)と、今に至る文化国家の基礎を固めた人物である。第二次世界大戦中はレジスタンス運動をし、『人間の条件』など多数の著作を残してゐる。記念行事は年間百三十件を超え、美術展、出版、舞台、映像、教育活動など幅広く、フランス文化省は単なる追悼行事でなく、時代を切り拓くものとしたいとしてゐる。
 マルローは四回来日し、とくに昭和四十九年、七十二歳での来日では、三週間にわたり各地を回り、伊勢の神宮や那智の滝の前で、雷に打たれたやうになり、帰国後、『反回想録』のなかで日本礼讚を書いた。当時二十代の文学少女だった私は、美術雑誌や文芸誌などにマルロー特輯が組まれるたびに読み、心揺さぶられたものだった。
 例へば、伊勢の神宮では、御遷宮に常若のありやうを直観し、『反回想録』のなかでかう記した。「忘れられた建築家が、劫初、不滅のものとしてこの至聖所を創案したのだ。なぜなら、のちの世にも、この国の人々は、永遠にそれを模しつづけ、再建しつづけるであろうからだ。忘れられた造園家が処々にこれらの灌木を配したのは、幾百年後になって、大地よりの未知の祝詞が人間の耳に到達せんがためだった」、また那智の滝については、「百メートルの高さより落下しつつ、しかもさながら噴出するかのごとくみえる那智の滝の精のごとく……そそりたつ列柱、そそりたつ飛瀑、光に熔けいる白刃。日本」(『アンドレ・マルロー日本への証言』竹本忠雄著、美術公論社)と、オマージュを記してゐる。
 来日の翌日には天皇の御引見に臨まれ、東宮御所で現在の上皇・上皇后両陛下に二時間にわたる御進講をされた。出光美術館では出光佐三氏に、“日本人は精神の貴族性を持ってゐると思ふのですが、なぜでせうか”と質問し、仙厓の作品を面白がったといふ。
 日本的霊性に打たれたマルローは、“偉大な日本思想のその至高価値は静謐なり”と考へ、永遠の日本を示したいと日本芸術展を十年間にわたって展開した。昭和五十一年マルローの追悼会では、レイモン・バール首相が「フランスにはアンドレ・マルローと呼ばれる栄光の部分がある」と弔辞を読みあげた。
 日本にとっても、このやうなマルローを思ひ直すことは意義がある。歿後五十年祭に日本も呼応しようといふ動きもあり、この夏、参議院日仏議員連盟会長の私も相談を受けたところである。
(参議院議員、神道政治連盟国会議員懇談会副幹事長)

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