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大嘗宮の行方 中澤伸弘

平成31年01月14日付 5面

 旧臘十九日、宮内庁に設置された大礼委員会は第三回の会合を開き、大嘗祭の祭儀の場である大嘗宮の御造営や構造などについて公表した。これによると諸事節約といふ考へがあるやうで、斎場の敷設の縮小などがあるが、中でも驚いたことは悠紀主基の大嘗宮の御屋根を従来の茅葺きから板葺きにするとのことである。職人の人件費や資材の問題もあるのであらうが、大嘗祭は「神代の風儀をうつす」と一條兼良が言ひ当てたことを思へば、その最大の重儀がなされる大嘗宮を古儀に反して板葺きにするのは納得できないものである。
 貞観の『儀式』や『延喜式』の践祚大嘗祭儀を見ても、その建物は「構ふるに黒木を以てし、葺くに青草を以てせよ」と定められ、往古の天武天皇の立制以来、中断再興の折にも厳守されてきた風儀であり、古制なのである。それは皇祖神に対する祭儀の場であるからに他ならない。
 仮に伊勢の神宮が同様な理由で板葺きになったとしたら、そこにはかの厳粛とした神聖性が欠け、皇祖神ます尊貴さも醸されないのである。戦国乱世の折にお手許不如意で御遷宮が滞り、御屋根の破損甚だしくとも、修繕こそすれ板葺きに葺き替へることはしなかったのである。それは神宮の建物はかうであるとの斎場としての自明の理が存したからである。それが伝統を護るといふことなのである。
 かやうに考へれば今日の技術からして茅葺きでできる大嘗宮を、敢へて費用の縮小の面から板葺きにすることが、いかに古儀に反し皇祖神に対する非礼に当たることがわかるであらう。そこには伝統に鑑みる一番大切な心が欠落してゐるのだ。
 大嘗祭は一世一代の大祀なのである。これが前例となれば今後も板葺きの大嘗宮が天武天皇の立制に反して造営されてゆくことになるのである。これは重大なことで看過できないことであることに何故気づかないのであらう。百歩譲って、重厚な茅葺きでなくともよい、軒端が端正に切り揃へられてなくともよい。人件費がかけられなくとも茅葺きの本義を護ることが祭儀の精神として重要なのである。大礼委員会の諸彦には今現在の視点しかなく、皇室の長い歴史と伝統とを、またそれを再興までもして悲願をこめて護り伝へた先人に対して、申し訳ないといふ忸怩たる思ひを抱かないのであらうか。悲しいことである。
 今何故、何に対しての譲歩なのか。税金の無駄遣ひとの批判を恐れるのか。政教分離の喧騒を封じたいのか。今日のわが国の宿痾は斯様なことに敏感に反応する萎縮した精神構造に他ならない。そこに後退はあっても発展性はない。
 本居宣長は『玉くしげ』において、祭事は身の丈に応じて最大のことをすべしと言うてゐる。皇室の国民生活に対して寄せ給う思召しはありがたく忝いものであるが、問題はそれとは又違ふのであって、すり替へてはならない。再度言ふ、大嘗祭は一世一代の大祀なのである。経済大国といはれるわが国は、それ相応の経済力を誇示する即位の大儀をおこなふべきであり、おこなへるのである。これが「身の丈にあった祭儀」であるといふものである。
 またいはう。大嘗祭は一世一代の大祀なのであると。後世にこの大礼委員会が重大な過ちを犯したと非難されるやうなことのなきやう、再考を強く願はずにはゐられないのである。もし大嘗祭へ奉賛の途が開かれたら、多くの国民から多額の奉賛がなされるであらう。これが御代始めの重要な祭祀であることを思へば、多くの国民は費用の縮小による悪しき前例となる古儀の変容よりも、正しい姿での斎行を願ってゐるはずである。ぜひ声を大にして再考を促したい。
 わが國は神のすゑなり神祭る昔の手ぶり忘るなよゆめ(明治天皇御製 神祇)
(都立小岩高校主幹教諭・國學院大學兼任講師)