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万葉びとと「草」 奈良大学教授 上野誠

平成31年03月04日付 5面

 大嘗宮の主要三殿の屋根材について,宮内庁の大礼委員会で茅葺きから板葺きへの変更が検討されるなか、今回、茅葺きでの大嘗祭斎行の意義も踏まへつつ、「万葉びと」と「草」との関はり等を主題に、奈良大学の上野誠教授に御寄稿いただいた。

 私たちは、さまざまな尺度を持って生きてゐる。
 だから、衣食住の一つ一つにも、尺度といふものがある。古めかしいか、新しいか。美しいか、美しくないか。正しいか、正しくないか、などを感じながら生きてゐる。生きるといふのは、感じるといふことでもあるのだ。
 七世紀後半から、八世紀を生きた人びとは、どんな尺度を持ってゐたのであらうか。瓦葺きの建物こそが、中華文明を表象すると考へられた時代、板葺きや藁葺きの建物は、旧式に見えたはずだ。藤原京(持統天皇八年〈六九四〉~和銅三年〈七一〇〉)以降は、寺院だけでなく宮内の建物も瓦葺きになってゆく。さういった朝堂院のなかに、天皇の御即位ごとに登場するのが、草葺きの大嘗宮だったのである。
 それは、古風そのものであったし、新形式の恒久的建物群のなかに、ぽつんと建った仮設的建造物であったはずだ。大嘗宮こそ、私は一つの祖先返りの建造物だったと考へてゐる。瓦葺きの建物こそが、眩しいほどに輝く中華文明の粋であった時代のことだ。しかし、それは当時の人びとにとっては、借り物の文明でしかなかった。外来文化に対して、自己の文化を主張する建造物、それが草葺きの大嘗宮だったのである。
 『万葉集』を見てゐると、都会文化に対する田舎文化、新しい文化に対する古い文化、貴族文化に対する庶民文化を表象するものとして、草葺きや、草を確保するための労働が描かれてゐる。具体的に見てみよう。

み吉野の
秋津の小野に
刈る草の
思ひ乱れて
寝る夜しそ多き
(巻十二の三〇六五)

「み吉野の 秋津の小野で刈った草 その草が乱れるやうに…… あれこれ思ひ乱れて 寝る夜が多いんだよ、今」ほどの意味となるが、ここでは、刈った草の様子が思ひ乱れる心を表してゐる。かういった発想は、草を刈った体験から生まれたものであらう。また、こんな歌もある。刈った草は、掴んで運ぶわけであるが、その掴む間も、忘れないで欲しいといふ歌である。

紅の
浅葉の野らに
刈る草の
束の間も
我を忘らすな
(巻十一の二七六三)

訳すと「(紅の)浅葉の野らでね 刈る草ではないけれど その束の間もさぁ わたしのことを忘れないでくださいね」となる。草を刈って、屋根を葺く、肥とする、燃料にする、塀を作るといふ労働を背景に生まれた歌だ。草は、重要な資源であったから、時には奪ひ合ひにもなった。次のやうな歌もある。

葛城の
高間の草野
はや知りて
標刺さましを
今そ悔しき
(巻七の一三三七)

訳せば、「葛城の 高間の草野をね もっともっと早く知ってさぁ 標をすればよかったのに 残念なことをした――」とならうか。
 八世紀を生きた万葉びとは、草を刈って生きてゐた。それは、当時においても田舎風の、古めかしい生活のひとこまであったが……。中国風の建物群のなかに、突然建てられる草葺き屋根の大嘗宮。それは、古代の人びとが、さらに古い時代に思ひをはせる瞬間であった。今、かくなることを思ひつつ、私は新しい大御代のことを思ってゐる。