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日本の茅葺き文化 大嘗祭を通して考へる 筑波大学名誉教授・一般社団法人日本茅葺き文化協会代表理事 安藤 邦廣

令和2年04月27日付 4面

 日本人が屋根に茅を葺くやうになってどのくらゐ経つのか。正確な起源はわからないが、少なくとも四世紀まで遡ることが出土物から確認できる。
 奈良・佐味田宝塚古墳から出土した「家屋文鏡」といふ青銅鏡の裏側には、四種類の建物が描かれてゐる。これらは四世紀の主要建物を表現してゐると考へられ、それぞれ竪穴住宅・高床住宅・高倉・平地住宅とされてゐる。竪穴住宅は掘った穴に屋根だけを据ゑたもので、高床住宅はその床部分が地面より高く上がったもの、高倉は伊勢の神宮のやうな切妻高床建物で、平地住宅は竪穴と高床の中間に位置するやうな建物だ。そして詳細に描かれた線描から、四種すべて茅葺きであることは明白で、当時の大和地方では屋根の主流が茅葺きであったことがうかがへる。

茅文化の歴史は

 近年の発掘調査によると、縄文時代の屋根の主流は土葺きが有力視されてをり、当時は森林が豊かで草原は広がってゐなかったため、茅はあまり自生してゐなかったと考へられる。日本の気候風土からいへば、農耕など人間活動がなければ森林の植生が保全される。
 ススキなどの茅は一般的に、生態学では一時的に出現する植生と説明され、日本列島の場合は火山爆発が最大の要因とされる。森林が焼かれた後、火山灰の土壌にまづ生えるのである。縄文時代に、土葺きが主流だったなか、人口わづか三十万人ほどで茅をどれくらゐ利用してゐたかは不明だが、一番下に薄く葺いて一定量の雨を流す防水層の「雨仕舞」として利用されてゐたと考へられる。木の皮でおこなふのが最も簡単だが、茅でも十㌢ほど葺けば十分に排水機能を有する。茅の上に厚い土がどっぷり乗ってゐるやうな住宅が、縄文の竪穴住宅だった。地下は温度が安定してゐることから冬は暖かく夏は涼しいため、何らかの半地下を利用することが竪穴住宅の利点である。一方で竪穴住宅は日本の場合、低湿地では湿気と排水の問題があって成り立たなかった。
 その後、弥生時代になると、居住域は次第に森林から草原や低地へと移っていった。屋根材もさまざま混在してゐたやうだが、「家屋文鏡」で見られるやうに、四世紀の古墳時代で、主流が茅葺きに変はっていく。かなり革新的な変化が起きたと思はれる。そこには稲作農耕文化への移行が関係してゐると考へられる。
 近年では、日本中が同じ「弥生時代」といふ時代区分では分けられず、地域的なものが時代とともに広がって「弥生文化」が滲透していった、とされてゐる。大和朝廷は、縄文と弥生が地域のなかで時代の層を積み上げつつ混在・変化してきたなかで成立する。「家屋文鏡」に茅葺き建物が象徴的に描かれるやうな時代である。建築とは生活の形であり、この鏡は人々が茅を使って暮しを営んだことを物語る。
 この時代の住居について、『万葉集』に「太上天皇(元正)御製歌一首」として「はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに」といふ歌がある。「はだすすき」とは、茅のうち主要なものの一つであるススキが、穂を出してはためいてゐる状態だと解釈され、「尾花」はススキの花の部分である。「黒木」は皮付きの丸太のことで、ススキを逆葺きで葺いて黒木でつくる「室」、つまり製材しない素朴な建物を歌ってゐるのである。
 民俗学者の池浩三氏は、この歌に大嘗宮を歌ったと思はれる節があると、控へ目ながら確信をもって仰ってゐる(『家屋文鏡の世界』)。「室」は土間のことだが、大嘗宮の原型も『儀式』や『延喜式』に示されるやうに土間形式である。さらに想像をめぐらすならば、古代の大嘗宮内の儀式は、土間にススキの茣蓙を敷いたのが本来の姿だったのではないか。この歌が大嘗宮を歌ったものだといふ説には、検討の価値があらう。

茅の不思議な力

 ここでススキの植生に話を転じたい。ススキの繁茂は火山列島である日本の宿命といへる。ススキの仲間は、日本と同じ温暖な気候帯であるカリフォルニアから地中海よりも、むしろ日本と同じ火山を持つ東南アジアなどに自生するのだが、実は植物的な研究はほとんどされてゐない。そのなかで近年、土壌研究との関係で注目されるやうになってきた。
 日本の土壌はススキが自生する「黒ボク土」と、「赤土」の二つに大きく分けられる。黒ボク土は、関東ローム層のやうな火山灰の降り積もった地形にできるとされたものの、真っ黒である理由が説明できなかった。火山灰の主成分では灰色になるはずだからである。
 それが、野焼きを約一万年繰り返した結果であることがわかってきた。森林化せずに草原が更新され、そこで草原性の植物が豊かな実りを齎す。イネ科の多年草であるススキはまさしくその代表なのである。
 火山も黒ボク土もない土地でも稲や小麦は作られるが、大抵の土壌は劣化して砂漠化する。日本では火山爆発や大地震等の自然災害による地殻変動によって土壌が常に更新されてきたことから、「黒ボク土」の土壌が日本の持続的な農業の永遠性、「万代」と結びついてきたといへる。
 ススキと「黒ボク土」は環境問題の面で有益である。黒ボク土はふかふかした黒い土で農耕に向いてゐるのだが、これはススキがある結果なのだ。
 「黒ボク土」の主成分は火山灰と同じケイ素で、色を出してゐるのは炭素であって植物を燃やさない限りできない成分だが、そこに木が生えると炭素が変化したり消費されたりして赤土に変はってしまふといふ。しかし、ススキが生えた草原だと微粒炭素として固着し、一万年間も蓄へられるのである。ススキが炭素を固定する働きを有してゐるからこそ、農耕に適した黒ボク土が育まれるのである。
 ススキの、モノを固着する性質がひじょうに強いといふ特徴は、おそらく火山灰の中にいち早く根を張って繁茂する上で獲得した性質と考へられる。福島の原発事故の後、周辺はススキ野原に変はってゐるのだが、放射線セシウムが固着されてゐるといふこともわかってきた。このやうに、いろいろなものを浄化するといふ茅の作用が科学的にわかってきてゐる。
 伊勢の神宮の屋根を茅で葺くことは、最も安くて大量にあるからだといふことが建築学で説明されてきた。しかしあらゆるものを浄化させる力を祕めた茅を用ゐることからは、合理的な説明を遙かに超えた意味が読み取れる。茅に対する意識、古代の人は茅の「力」に気付いてゐた。特別な植物だからこそ、屋根材として葺くことが大切であると考へたのではないだらうか。

「豊葦原瑞穂国」

 「豊葦原瑞穂国」の「葦」はススキとは異なるが、ひじょうに近い同じ仲間の植物である。湿原だと葦が優性になることから「山のススキ・水辺の葦」とも呼ばれ、この二つの植物によって日本列島は浄化されてきた。琵琶湖や霞ヶ浦などが葦によって浄化されてゐることはよく知られてゐる。一方でススキについてはよくわかってをらず、やたら生える厄介な植物としていまや邪魔者の代表ともなってゐる。
 しかし、これまで見てきたススキの作用を踏まへると、ススキと葦が一対のものとして日本列島の環境保全、持続的な資源、農耕社会の循環に寄与したと考へることができる。大嘗祭や神宮式年遷宮で最も大事なテーマは「更新」である。「茅」そして茅葺き屋根はかうした力の象徴ともいへると確信する。
 茅の浄化力については各国に例が見られる。国土の四〇%が海抜零㍍であるオランダでは、水辺の浄化が国土保全の最大の課題であり、古くから葦を用ゐ、刈り取ると屋根に葺いてきた。またデンマークでは、永年の酪農で牧草地の土壌が汚染されてゐたが、研究の結果、現在は日本のススキを改良したものをバイオ燃料とするとともに、土壌改良に努めてゐる。
 現在の日本では、ここまではおこなはれてゐない。しかし、すでに千三百年前の『万葉集』で歌はれてゐるやうに、大嘗宮、そして伊勢の神宮の屋根を茅葺きにしたといふことは、農業を持続可能にする茅の「力」を知ってゐたのだと考へられる。神宮式年遷宮が始まった奈良時代、あるいはそれ以前から、稲作農耕文化による国づくりは最も重要な課題であった。その方針が、茅葺きにもあらはされてゐると私は考へる。
 さて、池氏も指摘してゐるが、「家屋文鏡」の絵をよく見ると茅葺き屋根の突端がギザギザに波打ってをり、「逆葺き」であることがわかる。茅葺きには、茅の根元が軒先に向かふ「真葺き」と、茅の穂先が軒先に向いてゐる「逆葺き」とがあり、現在は「真葺き」が圧倒的に多いものの『延喜式』などの文献にはわざわざ「逆葺き」と書いてある例も見られ、特別な意味があると考へられる。
 厚く葺いて堂々たるものとしたり、耐久性を考へたりすると真葺きにする必要がある。薄く葺く逆葺きは、建築的には簡単な小屋や仮設建築などに適した簡易な葺き方といはれ、職人でなくても葺くことは可能だ。しかし「家屋文鏡」に描かれた当時の主要建物がすべて逆葺きであることから、単に簡易な方法だからといふだけではなく、逆葺きとすることそのものに特別な意味が籠められてゐるのではないだらうか。この点は池氏も指摘してゐるものの、その先については研究されなかったやうだ。私は「稲穂を表現するため」に逆葺きを用ゐたのではないかと考へる。

日本の「美しさ」

 建築とは雨露をしのぐものであると同時に、権威や目標を示すことにも使はれてきた。つまりこの時代、大嘗宮や神宮の屋根に茅を葺くといふことは、その国の方針をあらはすといへる。
 「豊葦原瑞穂国」の「豊葦原」とは「豊かな葦原が広がる」、あるいは「広げなさい」「広がるやうに」と解釈でき、「瑞穂」とは稲穂のことである。全体としては「稲穂が広がる国をつくらう」といふ意味であって、古代の日本人が稲作農耕を広めるといふ大きな目標を持ってゐたこととも合致する。
 当時、収穫期に多くの稲穂が頭を垂れるさまは豊かな実りの姿であっただらう。そして屋根材としては、根っこしか見えない真葺きより、逆葺きならば軒先から垂れた茅の穂先が稲穂のやうに見え、とくに美しいと感じられたのではないか。大嘗宮や神宮は儀式の象徴であり、建築としての耐久性より表現が大事だったのではないかとも考へられる。
 私たちの祖先が建築で大切にした価値観とは、美しい稲穂を表すことだったのではないだらうか。日本人はすばらしいものに対し、最終的な表現として「美しい」といふ言葉を使ふ。屋根全体に稲穂が下がって葺かれてゐる様は正にその「美しさ」といへよう。逆葺きは、日本人が大切にしてきた美しさであり、とくに祭りの「場」に用ゐることは、実り豊かで皆を幸せにすることへの表現だったのではないだらうか。以上、日本人と茅葺き文化に関し、昨年大嘗宮の屋根材に関する議論を契機として多分野の方々と話す機会があり、改めてわかってきた次第である。
(編輯部 本稿は令和二年二月十四日に開催された時の流れ研究会での発表を編輯部で要約したものです)

(以下写真)
家屋文鏡(宮内庁書陵部蔵)