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論説 パワースポット 安易な伝統破壊は慎むべき

平成22年11月08日付 2面

 神社を紹介する書籍や雑誌などに、「パワースポット」の文字が多く見られるやうになった。それは、風水などの考へをもとに「人を元気にしたり、健康にする力があると信じられてゐる場所」なのだといはれる。
 「パワー」といふ言葉の意味が、正しいニュアンスで伝へられてゐるのかは定かではないが、確かに神域に入り、そして参道を歩くとき、言葉に表すことのできない感覚に包まれ、そして神前に頭を垂れて祈念を捧げ、我々は先祖代々神の加護をいただく感触を受けてきた。
 言葉では説明できないやうなかうした感覚や人智を超越した存在を「パワー」と呼び、またそれに満ちあふれた場所が「パワースポット」として紹介され、神社仏閣などがその代表格として取り上げられるのは、頷けることだ。
 精神的に満たされない人々が、救ひを求めるやうに、現代人が人知を超えた存在を感じ、神社仏閣などを訪れることに加へ、いはゆる「パワースポット巡り」に価値を見出してゐるとすれば、神社人もその動きに注視せざるを得ない。
       

 「パワースポット巡り」を特集する書物などを見ると、神社への参拝そのものを「パワー」を受ける手段として紹介し、手水や拝礼の正しい作法を紹介してゐる例も数多く見受けられる。また、神域にある巨石(磐座)や縁ある樹木(神木)を紹介してゐる例も見られる。かうした磐座や神木は、神社への崇敬の念とともに、伝統的な信仰の見直しをも含んでをり、神社人として着目すべき点もある。
 では、なぜこのやうな紹介が多くなったかを考へたい。現代人は神社に何を求め、神社はそれにいかに応へるのだらうか。その観点から見れば、人々は神社に「パワースポット」との言葉が現す存在性を求めてをり、それを追ひ求める行為が、精神的に満ち足りないことから来てゐるのであれば、神社がこれまでおこなってきたさまざまな活動を今一度見直し、現代人の要望に応へる努力をしなければならないことはいふまでもないだらう。
 しかしながら、これまで神社が守り伝へてきた信仰形態を否定するやうな傾向を持った事例も出現してゐることには注意が必要だ。
       

 神社の信仰形態に相反するものとしての極端な例では、境内の一隅を「パワースポット」と称し、神前での拝礼を無視して、その一隅を訪れることだけを奨励するやうな事例もあるからだ。
 その神社は単に注目されることを是とするかもしれないが、神前を素通りする人々が神社の一角に陣取って、例へば木に手を当て御祭神と無関係の祈りを捧げてゐる姿もよく見られるといふ。極端な例では神域で祈りを捧げるのではなく、携帯電話に写真データををさめるだけで満足してゐるやうな事例さへあるのださうだ。まさに「パワースポット」といふ言葉に惑はされた極端な例といふことができよう。
 一方で宗教施設の関係者が高名な有識者に対して、「パワースポットであると紹介してほしい」と依頼する事例さへあると聞く。かうなると宗教者自身の資質にも関はってくるわけだが、いたづらに流行に飛びつかうといふ姿勢は慎むべきであるといはざるを得ない。
       

 「パワー」を求めて神社にやってくる人々に対して神社ができることは、まづは神前で拝礼することが何より大切であることを伝へた上で、神社の由来や神徳を説くことであらう。そして「パワースポット」とされることが、その神社に相応しいかを考へてもらふことであらう。その情報提供をすることが神社人の責務と考へられる。
 全国津々浦々に鎮座する神社にはそれぞれの伝承があり、またそれを国柄や地域風土に相応しく、正しく伝へるために、一つひとつの神社での神学・教学の確立の重要性が、これまでも主張されてきた。この各社における神学・教学を通じ、神社がどのやうな存在であり、現在人々が求めてゐる「パワー」といふものにどう応へるか、また、神社の伝統的な信仰を蔑ろにするやうな、相応しくない「パワースポット」化を如何に駆逐するかまで、我々は考へねばならないだらう。
 話題作りのために、安易に伝統を破壊するやうな行為だけは、厳に慎んでもらひたい。 
平成二十二年十一月八日