杜に想ふ
茶碗の中より 植戸万典
令和7年09月29日付
5面
小泉八雲の『骨董』所収の一作に「茶碗の中」といふ短篇がある。叶ふことなら書籍が望ましいが、インターネットで構はないのでぜひともひとまづ読んでほしい。
江戸時代、とある若党が年始廻りの道中に茶屋で一服したところ、茶の水面に見知らぬ美男が映った。周囲を見廻してもそれらしき者はなく、しかし茶を取り換へても茶碗の中にその顔は現れる。彼は不審に思ひながらも茶を飲み干す。その夜、若党のもとに茶碗の中の男が訪ねてきて、自分に見覚えはないか問ふ。若党は男を短刀で突いたが、手応へもなく、その男は壁をすり抜けて消えた。翌晩になると今度は、その男に仕へる侍だといふ三人がやってきて、主人は昨夜の刀で負った疵を養生し、必ずこの恨みを晴らすだらうと告げる。彼は三人にも斬りかかるが、三人もまた壁を越えて消えてしまふ。
説話集『新著聞集』を原典とするこの短い怪談の再話にあたり、八雲は前書きで読者に語りかける。古い塔の暗い螺旋階段を登った果てに蜘蛛の巣があるだけだったり、開けた海沿ひの道を歩いた先で一つ曲がるとそこはすぐに断崖だったり、さうした経験の感情的価値はそのときの感覚の強さと、その感覚の記憶の鮮やかさで決まるのだ、と。
古塔や絶壁の海岸は、彼がパトリック少年として過ごした英国やアイルランドでの記憶なのだらうか。必ずしも恵まれた環境だったとは云ひ得ない、けれども彼の内面の基調をなすケルトの文化に触れた少年時代の情景を鮮烈な記憶として顧み、男色的要素も多分に含む異邦の文芸の中にもその価値を見つけたのだとしたら、それは単なる怪談の再話には収まらない、小泉八雲といふ文学者にとって重要な一作なのかもしれない。
さう考へると本作の題名も示唆的だ。原題「In a Cup of Tea」は邦題と同様に物語の象徴的な場面を示すが、また「cup of tea」とは「好み」とか「お気に入り」、「得意分野」といった意味のイディオムでもある。八雲自身がどこまでの意図をそこにこめてゐるのか。想像は自由にできるが、わかり得ないものをわかった気にならうとしてもっともらしい理由づけをすることは陰謀論にも繋がるものだ。各自が思ふままに任せておくのが宜からう。
その代はりにと云ふわけではないが、先の八雲からの語りかけに答へたい。
幼少期の記憶だ。ある冬の朝、目覚めると一面に雪の積もってゐたことがある。さほど雪の降らない地域だったから子供達は喜んで背丈ほどある雪達磨を玄関先に作った。その日は午前中から家族揃って外出し、昼過ぎに一旦帰ったところ、日が昇って暖かくなったからであらうか、雪達磨は融けてなくなってゐた。子供心に残念に思ひながらそんなものなのだらうと諦め、午後はまた友人と遊びに出た。日も暮れて帰宅すると、玄関先にあの雪達磨があり、そして
(ライター・史学徒)
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