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明治維新百五十年 新企画「明治維新百五十年」連載に当たって―葦津明治維新論を継承するために― 

平成30年02月12日付 6面

 本紙は、平成三十年一月一日発行の新年特別号から「明治維新百五十年」に因んだ二つの新企画の連載を始めた。一つは「明治神道人の足跡」であり、もう一つは「顧みる明治の御代―あの日あの時―」である。これまでに、前者では「岩倉具視」(半田竜介氏)、「三條實美」(藤田大誠氏)、「高崎正風」(宮本誉士氏)を取り上げ、後者では藤本頼生氏の執筆による「王政復古の大号令」と「大久保利通の大坂遷都の建白」を掲載した。
 この企画は、初回のリードでも簡単に述べておいたが、いささか説明不足の恨みもなしとしない。そこで、連載から一カ月あまりを経た現在、いま少し本企画の趣旨を具体的に説明し、改めて読者諸賢の本企画への一層の御理解と御協力を得たいと考へた次第である。


 明治維新から百五十年となる節目の年を迎へた今日に至るまで、幕末維新期及び維新以降の近代日本に関する研究や評論は膨大な量にのぼる。いかなる専門研究者もそのすべてを読破することは不可能であり、巨大な玉石混淆の塊の中から珠玉の史論・評論を見つけることは至難の業である。しかし、斯界には葦津珍彦といふ本紙の生みの親であり、育ての親である論客が長年に亙り主張してきた幾多の珠玉の明治維新論や日本近代史論がある。
 明治維新に由来する「明治の精神の顕彰と継承」の重要性を戦後一貫して力説した葦津の史論・評論は、戦後の神社界や民族主義陣営などの指標となっただけでなく、明治維新以降の近代日本に対する批判的立場にある知識人などにも大きな影響を与へた。その葦津が明治維新百年から二十年になる昭和六十三年を目前にして、明治維新百二十年を記念するシリーズを本紙に掲載することを企画した。
 葦津の「明治維新百二十年」に寄せる思ひには並々ならぬものがあり、本紙の昭和六十二年十一月二日号から五回に亙って「明治維新史論の対話」を連載してゐる。これは「対話」とあるやうに、当時の本紙編輯長・高井和大氏(現・貴船神社宮司)のインタビュー形式のもので、「維新を生み出した原動力、その精神を再び顧みる運動を展開することの意義」を幕末維新期から戦後にかけての国民各層の「天皇意識」を軸にして縦横に語ってゐる。


 この葦津のインタビュー形式の明治維新史論を皮切りにして、本紙は「明治維新から百二十年」と題して連載を始めることになったが、それは単に編輯部だけの企画ではなく、神社新報社一丸となっての取組みでもあった。当時の本社社長であった篠田康雄・熱田神宮宮司は新年特別号の挨拶で「神社界は二十年前の明治維新百年を期に従来の戦後思想一辺倒の日本の風潮に、一つの変換をもたらすことに成功しました。それに加へる一大国民運動を展開すべき年が今年明治維新百二十年であると私は確信し、まさにその機は熟してゐると判断、神社新報にも昨秋いらい、既に維新百二十年の啓蒙運動の展開を指示してゐるところです」と述べてゐる。
 それから三十年が経ったが、本紙はこの葦津や篠田の遺志を継承すべく、本年の新年特別号でも社長の高山亨が「また本年は、明治維新百五十年の記念すべき年でもあります。当社では、近代国家を形成した明治の精神を継承するための一助とすべく、昨年には『現行皇室法の批判的研究』を関連法令や関係文献・資料を増補した上で復刊し、本年は明治神宮編『大日本帝国憲法制定史』の復刊と、新刊として『明治憲法の制定史話』(葦津珍彦述)の刊行、紙上では「明治神道人の足跡」などの連載を企画してをり、あらためて明治の精神を顕彰する好機と致したく存じます」と挨拶してゐる。


 高山社長の挨拶にいみじくもあるやうに、『大日本帝国憲法制定史』にしろ『現行皇室法の批判的研究』にしろ、はたまた今般の「御譲位」をめぐる「時の流れ研究会」の一連の提言・要望にせよ、いづれも葦津珍彦の明治維新論を抜きにしては語れない。
 五十有余年前、葦津は「先人たちと共に、今一度あの維新の歴史を追体験し、先人たちとの心理的交流に努めるがいい。そして今の日本の問題についても、先人たちに問ひかけるがいい。あの苦難の時代に、国を救ひ、日本を雄飛させたいとの一念に燃えて生死した先人たちの英霊は、必ずや現代日本の諸問題解決のためにも、英知と大いなる勇気を授けてわれらをはげまし給ふであらう」と述べた。この葦津の言葉は、半世紀以上が経過した後の現代日本への痛切な憂国のメッセージとして今なほ色褪せてゐない。
 それどころか、葦津が先頭に立った五十年前、三十年前とは国内外の情勢は大きく様変はりし、日本が抱へる「諸問題」も一段と複雑多岐に亙ってゐる。そんな時世だからこそ、小なりとはいへ、社会の木鐸たる使命を有する本紙が率先して葦津の明治維新論に基づく「明治の精神」を継承・発展させる「時勢」を作り出す尖兵の役割を果たさなければならない。このシリーズを企画し、連載することを決断したのは、この葦津の言に我々編輯部は改めて奮起させられ、非力を痛感しつつも葦津とともに「あの維新の歴史を追体験し、先人たちとの心理的交流」をしたいとの一念があったからである。


 ところで、人物と時世の両面から「明治の精神」を読み取り、それを今に継承するための一助としたいといふ企画は、一見、平凡なものにも思はれるが、少し考へてみるとさうでもないことが分かる。率直に言って、かなりタイトでかつハードルの高い企画であることは重々承知してゐる。一口に「人物と時世」とは言っても、時世に無関係の人物は仙人でもない限りこの世にさうざらにゐるものではないし、また、その時々の時世に生き、時勢(時の流れ)を生み出すのも人物がゐればこそである。
 そのことを念頭におくならば、人物の選択と時世の「エポックとなった事柄」の選択との連関・相関関係がある程度は明確に読者に伝はるやうな内容の企画でなければならない。執筆者はもちろんのこと、紙面を実際に制作し、読者に届ける責務を持つ編輯者にとってもかなりシンドイ作業を要する企画であることは事実である。それをどう克服するか。その導きの糸となったのも、やはり葦津であった。
 本連載の初回には「神道人」として岩倉具視が、そして事柄では「王政復古の大号令」がセットになって掲載されてゐる。言ふまでもなく、「王政復古の大号令」に岩倉具視が深く関与してゐることは維新史の常識となってゐる。この「王政復古の大号令」と岩倉との関係に触れて、葦津珍彦は「この大宣言は、思想的にも政治的にも時の条件とよく一致したすぐれたものだった。岩倉は、この時いらいその晩年にいたるまで、波瀾興亡の中で、維新権力の最高実力者として生き延びて行く。その政治能力は卓抜だった」と述べてゐる。
 ここまでは岩倉に対する一般的な評価の域を出るものではない。葦津の史眼の鋭いところは、続けて「しかし、この卓抜な宣言の実際のプランを立てた神道家、玉松操の提案した『神武創業の始めにもとづく』との語には、岩倉や維新派武士団一般が、同感した程度の意味以上の深刻な意味があった。この大号令の文章の終りには、今後皇室、政府の官制や朝廷の礼式の御改正あるべきことを予告してゐるが、玉松にはその構想があった」と述べてゐる点である。この葦津の指摘は、本連載でこれから取り上げる人物や事柄に関しても応用可能であり、今後の連載に当たっても十分考慮されてしかるべきだと考へてゐる。
 幸ひ、今のところ、冒頭に記した岩倉などの人物論、そして王政復古の大号令や大久保の大坂遷都論には本紙ならではの葦津の明治維新論と「明治の精神」論が活かされてゐると自負してゐる。神道・国学の学校設立や憲法・皇室制度の基礎を築いた岩倉具視、近代的祭政一致の国家体制の樹立に向けて尽力し、皇室と神社の関係に晩年まで腐心した三條實美、そして伝統文化の最たるものとしての宮廷和歌の継承と発展、さらには明治天皇の大御心を体して教育勅語の普及運動に邁進した高崎正風。いづれも凡百の人物論にはない視点から、各執筆者はこれらの人物を神道人として取り上げてゐる。
 また、藤本氏による「王政復古の大号令」や「大久保利通の大坂遷都の建白」は、明治維新期のエポックとなった事柄から当時の時世を追体験できるだけでなく、当該の事柄に関係する多彩な人物、例へば大坂行幸に際して『古事記』を明治天皇に御進講した福羽美静などを登場させることによって、今に続く宮中の儀式の淵源を教へてくれる内容となってゐる。その筆法はまさしく、葦津の描く人物と事柄、苛烈な政治的状況のなかで鋭く対立しつつも「天皇意識」を共有した先人たちの生き方を活写した姿を彷彿とさせるものであらう。
 いづれにせよ、本連載は始まったばかりである。読者諸賢の忌憚ない御批評を賜り、これからの長丁場を執筆者と密に連携しつつ、葦津珍彦の「明治の精神」論の現代版を斯界はむろんのこと、広く社会にも発信していきたいと思ってゐる。

神社新報社編輯部