文字サイズ 大小

大嘗祭における聖性と聖物の措置 〈後篇〉 皇學館大学特別招聘教授 櫻井治男

令和元年06月03日付 4面

 ここで、改めて大嘗宮の聖性といふ問題について考へてみたい。〈前篇〉において述べたやうに、祭儀が終了すると悠紀・主基両殿をはじめ諸建物が撤去されるのは、それらが仮設的に建てられてをり、使用目的が終了したからといふ理由もあらうが、それにも増して「壊却」自体が儀礼の一環としておこなはれるものと見做すことが妥当である。そして、最終処理に当たっては、その性質からくる慎重な措置対応がなされるべきとの観念が認められる。
 大嘗宮の壊却と対照的なのは、伊勢の神宮における式年遷宮にともなふ旧殿への対応である。現在、「遷御」後の旧殿は、暫時一般公開がなされたのち、時を隔てず撤去される。しかしながら、関係史料を詳細に検討した研究によれば、古代にあっては、殿舎は遷御後すぐに壊却されず、次の遷宮の一年前に鎮地祭(十九年仲秋)がおこなはれるまで存置されるのが本来のあり方と見られてゐる(牟禮仁『大嘗・遷宮と聖なるもの』)。すなはち、現正殿に並び建つやうにして旧殿が建ってゐる光景が長らく続いてゐたわけである。これなどは、〈前篇〉で示した聖物の措置方法に関する類型①毀却(壊却・破却)、②焼却、③埋納、④流棄、⑤分配、⑥存置(放置)のうち、⑥の例で、手を触れずに置くことが聖性の保持といふ観念との関連性を示してゐよう。

■ ■


 それでは、⑤「分配」(頒賜・下行)といふ方法と聖性との関係はどのやうな状況であらうか。祭典後に神饌や幣物類を祭祀奉仕者へ「下行」(頒賜)することは古くからおこなはれてきたが、建造物を頒つ例もある。奈良市の春日大社では遷宮が終はると古社殿が近隣地域の春日神奉斎地へ配分(移建)され、それが国宝となってゐる場合がある(奈良市忍辱山町・圓成寺鎮守春日堂)。
 この点、伊勢の神宮においても、遷宮後に古殿・古材が各地の神社や聖所で「再びのお勤め」をしてゐる。その顕著な例としては、昭和二十八年の式年遷宮後、内宮旧正殿が、昭和二十年の空襲によって烏有に帰した熱田神宮本殿として頒賜された。また平成二十五年の式年遷宮では、殿舎の古材が慣例による拝受、あるいは東北大震災での被災地域の神社再興に用ゐられた。そして内外両宮の正殿棟持柱が、内宮の五十鈴川に架かる宇治橋両側の鳥居に転用され、二十年後それらが、三重県内の参宮街道筋にあたる桑名市「七里の渡し」と亀山市関町「関の追分」の鳥居として移され、さらに最後は地元の神社で利用されることは知られてゐる。宇治橋鳥居のことは明治二十二年度の第五十六回式年遷宮以降の新儀ではあるが、近代以前の記録を見ても古殿の措置として両宮の近隣地域や、伊勢湾を隔てた旧神領地の社殿造営に用ゐられてゐる。また、一例ではあるが、内宮の鎮座する宇治の町の山神社造替記録(近世後期)によると、同社は神宮の古材を受けて二十年ごとに造替する慣例を採ってゐたが、古材の加工にあたる大工方へ、たとひ木屑さへも他の用途に用ゐず厳重に処理をするやうに指示されてゐる。
 なほ、明治二十二年に元赤坂仮皇居の賢所・神嘉殿が熱田神宮へ、また京都御所の賢所と神嘉殿が、明治二十三年創建の橿原神宮の本殿と拝殿として下賜されたこと(『明治天皇紀』第七巻)も聖性の高い建物の措置例として併せて注意しておきたいことである。
 このやうに聖性を帯びた、あるいは一旦聖別化されたモノは、その本来の使用が終了しても、分配する側、頒賜を受ける側の双方に、安易に聖性を冒涜し、蔑ろにしてはならないといふ強い禁忌意識が横たはってゐることに間違ひはなからう。

■ ■


 大嘗祭における聖別化された建物や品々、それに関はりを有した場の取扱ひについて、その準拠となる方法として既述した古代的な措置(壊却・焼却)は、決して過去の聖性意識に留まる対処ではなく、現代社会においても慣習として見出され、また重要な文化的意義を有してゐる。この点は、近代以降の大嘗祭における聖物の措置についても伝統継受と新たな展開を見せた対応がみられる。それは、とくに大嘗宮及び関連施設の措置といふ点において顕著で、建造物の何を、どのやうな形で処置するのか、換言すれば脱聖化といふ問題にいかに向き合ふかであり、また施設を分配(転用)するならば、どこに分かち、何に用ゐられるかといふ点が関はってゐる。
 孝明天皇の大嘗祭は嘉永元年(一八四八)に斎行されたが、その節の大嘗宮の黒木鳥居が有間神社(神戸市北区)に下賜されたと言ふ(『式内社調査報告』第五巻)。大正度の場合も当局は大嘗宮の措置に関し「古例ニ遵ヒ……勉メテ神聖ニ施行セムコトヲ期シタリ」(『大礼記録』)と、「神聖」を損なはない方針で臨んでゐた。昭和大礼の大嘗祭、即位礼、大饗がおこなれた諸建物の下賜状況の分析研究によれば、大嘗宮の柴垣内の悠紀・主基両殿、廻立殿及び黒木造の諸建造物は建物の性質上、加茂河原の適地で焼却、電線・鉄釘等不燃物は仙洞御所内に埋納された。それ以外の諸建物も儀式の神聖さと公式性の度合ひによる下賜先・転用用途が勘案され、社寺など宗教施設、教育施設等へ「建物本来の意味を保ち続ける下賜先」が決定されてゐる(原戸喜代里・大場修「昭和大礼における御造営物の下賜過程」『日本建築学会計画系論文集』第七四巻、第六三七号)。
 上皇陛下の平成二年大嘗祭においても、皇居内東御苑に設けられた諸建物のうち、大嘗宮柴垣内の諸殿は焼却されてゐる。このやうな状況を窺ふと、とくに祭儀の中心施設となる悠紀・主基両殿、廻立殿(沐浴施設)は、他への転用といふ形は採られず、これまで紹介してきたやうな聖物措置方法の脈絡で措置されてきたことが分かる。

■ ■


 令和元年の大嘗祭がどのやうにおこなはれるのか、その準備も今後本格化するところであるが、すでに大嘗宮の建築材料について、旧来の慣例が変更されることも窺はれる。茅葺屋根ではなく板葺屋根となることについては、専門家の観点からも技術継承のみならず文化的意義において疑問視されてゐる(安藤邦廣「大嘗祭は茅葺きで」『神社新報』平成三十一年二月十一日号参照)。また、前回は大嘗宮の料材の大部分は焼却され、再利用もおこなはれなかった(鎌田純一『位禮・大嘗祭 平成大禮要話』に「この大嘗宮の古材を供与するよう求める向きもあったが、それは古例に反することである……その主要部分の材等を撰び、……鑚火をおこし焼却の儀を行い、あと適宜壊却した」と記されてゐる)。ところが、今回は「解体資材」の「資源の有効利用促進」等の観点から「公的機関における公益的用途」を図り、「公園施設や防災土木などの用途での再利用」(平成三十年十二月十九日、第三回宮内庁大礼委員会議事概要)が検討されてゐるやうである。
 これについては、平成時の対処が諸先例を継受してゐる意識を尊重し、少なくとも実行段階に当たっては、大嘗祭はもとより、わが国の祭りや儀礼文化に見られる「聖性」の保持と解除といふ観点から、最終的に然るべき慎重な措置がなされることが、伝統を次代へ伝へていく上で必要と考へるところである。それは、日本文化の無形の重厚さと通底してこよう。
(本紙論説委員)
〈了〉