杜に想ふ
しめ 神崎宣武
令和7年10月20日付
6面
女性編輯者たちの前で、「注連縄」について話す機会があった。
注連縄は、いふまでもなく、「標縄」と書くがごとくに、神が占有なさるところの清浄な領域であることを示す、その張縄である。
そこでの藁垂は、七・五・三が尊ばれる。奇数を尊んだ江戸の幕藩体制のなかで広まり、定着したものである。もっとも、牛蒡じめや大根じめは、そのかぎりではない。注連縄には、種々の形式があるが、まづは藁製の「縄」に注目してしかるべきだらう。
その藁は、新米を刈り取った際の藁が尊ばれてきた。それは、秋祭りや正月にあはせることができる。そして、春の行事にあはせての藁の保存も大事なことであった。
「飾り」(お飾り)といふ呼称もある。しかし、それは、歴史的にみると新しいし、全国に及ぶものでもあるまい。
といったところで、ひとりの編輯者が不服さうな顔つきで発言された。注連飾りといふ言葉が正当だらう、といふのである。注連縄を張る、といふよりも、注連を飾るといふ方がより丁寧だらう、といふのである。
私は、返答に困った。地方ごと、家系ごとには、それぞれの伝承がある。そのことは認めなくてはならないが、歴史的な主流とは違ふこともある。それを、どう説けばよいのか。
たとへば、江戸後期の風俗事典ともいふべき『守貞謾稿』(喜田川守貞著)には、「京阪にては、しめと云ふ。江戸にては惣じてしめとも、かざりとも云ふ」(傍点は、筆者)と記す。そして、「近年、江戸にて稲穂の付きたる藁をもって、輪注連を少し大形に精製し、あるひは奉書紙を蝶のごとく折りたるなど、飾りとなしたるを、床の間あるひは坐敷の内、しかるべき柱などに掛くること、風流を好む家に専らこれを用ふ」と追記してゐるのだ。
さうした説明も、なかなか通じにくい。ならば、と思ひ直した。
とくに、北関東の農山村では、近年まで注連縄に緑葉(代表的なものはユズリハ)や干柿や橙を取り付けてゐた。
お正月さまござった どこからござった
ユラユラユラと ユズリハにのって 山からござった
さうした童歌を、私と同年配の高齢者の方は、まだ覚えておいでであらう。アニミズムの伝承、としてよからう。
もちろん、豊穣を祈念してのことでもあるが、紙垂が一般化する以前の古いかたちとみることもできるだらう。そこでも、注連縄を「飾る」といふ言葉がつかはれてゐた。
結論を急ぐこともなからう、と、さうした話も加へた。その編輯者が納得したかどうかは、わからない。だが、うなづいてはくれた。他の人たちも同様であった。
たかが注連縄、されど注連飾りか。それぞれの頭の中の辞書にも違ひがあり、とあらためて認識したことである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)
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