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杜に想ふ 有り難い 涼恵

令和7年10月13日付 5面

 つい先日、日本文化興隆財団が主催する田んぼ学校の稲刈りに、田植ゑに引き続いて参加させていただいた。今年は米不足といふ報道や値段が高騰してゐる現状のなかで、目の前に広がる黄金色の田んぼで揺れる稲穂は眩しくてありがたかった。
 まさに「有ることが難しい」。「ありがたう」の対義語は「当たり前」だといふ。
 この世のなかに当たり前なんていふことがあるのだらうか……と年齢を重ねるほどに感じてゐる。天候も人との出逢ひもこの命も奇蹟の連続で成り立ってゐるやうに思へる。
 この原稿の執筆中に、たいへんお世話になった邦楽打楽器奏者の西川啓光先生が帰幽された。十日後には共演のコンサートが控へてゐた。舞台上で後ろを振り返ると、いつも優しく茶目っ気のある笑顔で応へてくださった。緊張してゐる時も、不安な時も、目が合ふと心が落ち着いた。西川先生の経験と包容力に、どれだけ支へられてきたことか。
 神道における「常若」の思想が心に灯る。命が尽きることは終はりではなく、大きな繋がりのなかで一つの役割を果たした、といふ風に受け止められたら、まだその存在は近くに感じられた。
 今年は、ことさら厳しい残暑で、四季の移ろひが失はれつつある、と感じられた方も多いのではないだらうか。だが、秋は確かに訪れた。稲は稔り、紅葉は色付き、葉を落とす。春、夏、秋、冬と、緩やかに季節が廻ることも、人の命も当たり前ぢゃない。
 酷暑を乗り越え、今年のお米の出来は全国的に豊作とのこと。六月に植ゑた小さな早苗が、わづか三カ月で力強く稔ってゐる。なんて神々しいのだらう……。稲穂を前に、思はずこちらも頭を垂れる。私たちは、目に見えない多くの働きに生かされてゐる。
 斎庭の稲穂の神勅――天照大御神から授けられし三大神勅の一つ。稲はただの作物ではなく、天と地、祖先と今とを結ぶ神聖な糧なのだらう。田んぼのなかで稲と対話をしてゐると、神嘗祭と新嘗祭が一年のなかでとくに重要なお祭りとされてゐることが理窟抜きで体に入ってくる気がする。
 今、世のなかを見渡せば、米不足だけでなく物価の上昇、移民問題や環境問題など、混迷する情勢が多く見受けられる。でも、そんな時だからこそ、何気なく培はれてきた日常のあれこれに想ひを馳せ、感謝で満たして生きてゆきたい。
 きっと、当たり前と何気ないこととは違ふ。
 食卓に御飯があること、人と話せること、朝が来ること、何気なく過ごしてゐる日常こそ、有り難いことだから。
 “稲とは命の根”ともいふのだと農家の方が教へてくれた。稲刈りの数日後、結んだ稲穂の一束を西川先生へと手向けた。ともに紡いだ音「豊葦原の瑞穂の国」を幽世でもまた奏でられるやうに。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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