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杜に想ふ 煽げばさうとしか 植戸万典

令和7年07月14日付 5面

 今年の日本列島は梅雨を飛ばしていきなり夏に入ってしまったかのやうだ。この暑さのなかの街頭演説やらビラ配りやらの選挙運動は、候補者にとっても有権者にとっても苛酷なものだらう。多少のおしめりと、その後にさらに虹でも立てばまだ、わづかばかりでも幸福感を得てその日を終へられようが。
 現代日本では、虹は多くポジティヴなものとして捉へられる。雨上がりの青空に架かる虹の弧を見つければ嬉しくなり、今日は良いことがあったと家族に語ったりSNSに投稿したりするかもしれない。我々にとっての虹とは、おほむね幸せの象徴だらう。最近ではセクシュアリティの多様性のシンボルとして使はれてもゐる。
 けれども、世の中はそればかりではない。
 アイヌ文化の研究者によれば、古くアイヌでは、虹を「ラヨチ」と呼んで魔物や不吉なものとして恐れたり忌んだりしてゐた地域があるらしい。ラヨチを指さすと手が腐るとか長く見つめてはならないとか、追はれて後ろから臭い息を吐きかけられたとか、その息の臭みは人も死ぬほどだとかいった話が伝はるのだといふ。アイヌのなかでは、虹は美しくともネガティヴな意味を持つものともされてゐたのである。
 さうであれば、例へばここにアイヌの人と和人が居合はせてゐたとしよう。俄かに雨が降った後に空を見上げた二人は、そこで虹を目にする。ここで二人はどうするか。和人の方はおそらく喜び、スマートフォンで写真を撮るかもしれない。その一方でアイヌの人は虹から目を逸らし、そこから遁げ去るやうなこともあらう。和人のその日は喜ばしい日であり、アイヌ人のその日は厭な思ひをした日になる。同じ時間、同じ場所で、虹が現れたといふ事実も同じでも、起きてゐる出来事はそれぞれ異なってゐる。
 もちろん、虹を不吉なものとするアイヌの文化は俗信かもしれない。しかし我々が虹を見て幸運だと感じることもまた、根拠のないことだ。虹とは大気中に浮遊してゐる水滴によって日光が分散することで生じる自然現象であり、吉も凶もない。
 同じ日本列島に暮らしてきた人でも生きる世界が異なれば見え方も変はる。人は、同じ物事に対してもそれぞれ違ふものを見てゐるのだ。真実はいつもひとつとは限らない。
 夏の選挙運動では、円形の厚紙にちゃうど親指の通る穴が空けられたものが駅前などで配られることがある。受け取った人はそれで煽いで涼を得ることもあらうが、あくまでもそれは任意の形状と厚さのA4判以内の紙に選挙管理委員会から交付された証紙を貼って候補者の政策などを伝へるため配布してゐる「ビラ」だ。政治家らは有権者への有価物の寄附が禁じられてゐるのだから、ビラ以外のなにものでもない。煽げば「団扇」だとしか個人的には思へないが、違ふのださうだ。
(ライター・史学徒)

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