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杜に想ふ ふるさとの音色 涼恵

令和7年08月11日付 5面

 このたび以前からの御縁もあって、七月八日に山口県長門市で開催された安倍晋三元首相を偲ぶ会で、昭恵夫人をはじめ会場に集った方々とともに「ふるさと」を歌ふ機会を賜り、その景色が今でも心に焼き付いてゐる。
 御承知の通り作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一。東日本大震災の復興支援コンサートをはじめ数多くの追悼式や式典、合唱コンクールなどでも選曲され、百年を超えて歌ひ継がれてゐる名曲である。
 安倍元首相は、御自身の集まりや拉致被害者との会などでも、好んでこの曲を歌はれてゐたといふことで関係者にとっては馴染みの深い曲だと仰ってゐた。
 筆者にとってもこの曲には忘れがたい思ひ出がある。ブラジルへの日本人移民第一船「笠戸丸」が神戸を出港しサントス港に到着した明治四十一年から百年を迎へた平成二十年、日伯移民百周年記念コンサートを同国北部のアマゾナス州マナウスの日系人集落にて開催させていただいた時のこと。
 コロニーと呼ばれる集落に足を踏み入れた時、直感的に日本の風土と文化を感じ取ることができた。遠く離れた空の下にも、静かに息づく確かな存在と気配があった。
 コンサートの中で「ふるさと」を歌ひ始めると、会場はたちまち大合唱となった。驚いたことに日系五世だといふ青い目をした子供たちも、歌詞を見ずに三番まで声高らかに歌ひ上げる。なかには、頬に涙をつたはせる方もいらした。今の日本において、歌詞を見ずにこの曲を最後まで歌へる人がどれだけゐるだらうか。
  いかにいます父母 つつがなしや友がき
  志をはたして いつの日にか帰らん
 移民された一世二世の方たちがどんな思ひでこの歌詞を子供や孫たちへと歌ひ継いできたのか……。時が流れ、子孫が日本語を話せなくなってもこの曲は歌へるといふ目の前の事実に心が震へた。
 海を越えても失はない故郷との絆、新たな地で一歩づつ、ともに助け合ひながら文化を紡いでこられた人々の軌跡。言葉や風習が違っても、そこで暮らす人々の心は確かに日本の故郷に根ざしてゐた。
 安倍晋三元首相は、この「ふるさと」といふ言葉の意味を、誰よりも深く抱いてをられた方だったのではないだらうか。拉致被害者の家族に寄り添ふときも、国の未来を語るときも、そこには一人一人の故郷を守らうとする、揺るぎない姿勢が窺はれる。
 あの日、長門で皆とともに歌った歌声は、元首相の想ひと静かに響き合ひ、会場の空気を優しく包み込んでゐた。
 歌は記憶を繋ぎ、心を一つにするもの。
どんなに遠く離れてゐても、たとひ時を超えても、とこしへに守り伝へてゆくべき「ふるさとの音色」が、そこにはあった。
(歌手、兵庫・小野八幡神社権禰宜)

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