論説
生糸繰糸始式 養蚕の歴史・伝統を顧み
令和7年07月28日付
2面
今号掲載の通り、第六十三回神宮式年遷宮御装束神宝御料・生糸の繰糸始式が七月十八日、関係業者らの主催によって群馬県の製糸会社で執りおこなはれた。
この繰糸始式は、式年遷宮にあたり調製する御装束神宝の御料として生糸を紡ぎ始めるにあたり、繰糸機などを祓ひ清め、生糸の順調な生産などを祈念するもの。式年遷宮に関しては、五月に諸祭の嚆矢となる山口祭と木本祭が、六月には御用材を伐り始める御杣始祭が斎行され、社殿の造替に向けた本格的な準備が始まってゐる。これにあはせ、新たに奉献される御装束神宝の調製も順次進められてゐるやうだ。
まづ以て御装束神宝の調製が無事に執り進められ、式年遷宮がみごと完遂されることを切に願ふものである。
○ 養蚕による生糸の生産については、『日本書紀』の第二十一代・雄略天皇の六年に「天皇、后妃をして親ら桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す」との記述が見られ、これが皇室における御養蚕の端緒ともされる。
明治四年には昭憲皇太后が宮中で御養蚕を始められ、以降現在まで歴代の皇后がお引き継ぎになられてきた。とくに上皇后陛下には平成十八年、また皇后陛下には昨年、それぞれ第六十二回と第六十三回の式年遷宮における御装束神宝の調製にあたり、日本在来種の蚕・小石丸の繭を神宮に下賜されてゐるといふ。
式年遷宮は「皇家第一の重事」といはれ、天皇が奉祀遊ばされる神宮祭祀の最重儀に位置付けられる。神宮が一宗教法人となった戦後も、先人たちはその認識のもとで社殿の造替と御装束神宝の調製に尽力してきたのであらう。さうした神宮の根本義の尊さや、いはゆる真姿顕現の重要性に思ひを致しつつ、式年遷宮にあたり宮中から小石丸の繭が下賜されてゐることのありがたさを改めて噛み締めたい。
○ わが国における生糸の生産、蚕糸業の現状に関しては、今回の繰糸始式にも参列した一般財団法人大日本蚕糸会の松島浩道会頭が本紙(第三七三四号、六月三十日付)に、「存亡の危機に直面してゐる国産の生糸」と題する論攷を寄稿してゐる。
その論攷などによれば、養蚕による生糸の生産が中国からわが国に伝はったのは弥生時代。生糸を原料とする絹織物は、奈良・平安時代における貴族の衣装文化のなかで欠かせないものになったといふ。中世の戦乱期には一時生産が落ち込み、江戸時代には稲作が優先されるやうな事情もあったが、各藩が財政再建のために養蚕・織物業を奨励したことにより、現在に続く織物の産地が数多く生まれた。
明治維新後、新政府は「富国強兵」「殖産興業」政策のもと、富岡製糸場を開設するなどして生糸の品質向上と生産拡大を推進。生糸は開国から昭和九年までの七十五年間に亙り、終始わが国最大の輸出品目として近代化を財政面から支へた。
しかしその後、米国・デュポン社が石油を主原料に開発したナイロンの普及、海外からの安価な生糸の流入などによりわが国の蚕糸業は衰頽。昭和初期に二百万戸を超えてゐた養蚕農家は終戦前後に百万戸、昭和五十年には二十万戸ほどに減少し、現在はわづか百三十四戸となってゐる。
○ もちろん、斯界の力だけで蚕糸業の危機的な現状を打開できるものではない。自国の産業保護の難しさは昨今の米国による関税措置などを見ても容易に想像できるが、近年は大量生産・大量消費による産業の拡大・成長だけでなく、持続可能性といふ視点の大切さも指摘されてゐる。
また式年遷宮における御装束神宝との関はりでいへば、昭和四十八年の第六十回式年遷宮にあたり、御装束神宝の調製に係る伝統的な技術・技能の継承や、資材の確保などが困難になってきてゐることへの危機感から、財界・神社界などが協力して日本民族工芸技術保存協会を設立。同協会においては、これまで製糸技術の保存などにも努めてきた。
式年遷宮における御装束神宝の調製に向けた繰糸始式にあたり、宮中での御養蚕、そして神宮の真姿顕現といふことにも思ひを致したい。そして、さうしたことが、わが国における養蚕の歴史と伝統を顧み、生業としての蚕糸業の今後についてもより広く考へる契機となることを期待するものである。
令和七年七月二十八日
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