杜に想ふ
観望する者 神崎宣武
令和7年07月28日付
5面
民俗学の先駆者である柳田國男(明治八年〈一八七五〉~昭和三十七年〈一九六二〉)の『日本の祭』(角川ソフィア文庫版)を、読むとはなしに拾ひ読みしてゐた。そこで、以下の一文が気になった。
「日本の祭の最も重要な一つの変わり目は何だったか。一言で言うと見物と称する群の発生、すなわち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人々、言わばただ審美的の立場からこの行事を観望する者の現れたことであろう。それが都会の生活を花やかにもすれば、我々の幼い日の記念を楽しくもしたと共に、神社を中核とした信仰の統一はやや毀れ、しまいには村に住みながらも祭はただながめるものと、考えるような気風をも養ったのである」
昭和十七年(一九四二)の執筆である。それ以前からも、さうした時々の変化はあったであらう。が、まさか戦時下(第二次大戦下)のこの時代にかうして特筆すべき「変わり目」が生じてゐたとは。私には、驚きであった。
具体的には、神幸がさうであっただらう。神楽がさうであっただらう。獅子舞がさうであっただらう。
「信心の深い者の心では、神の御出入という部分が祭の要所であり、それだけは一定の条件を具えた奉仕者よりほかの者に、見せてはならぬという戒めを守っているのだが、娘や子供や多数の路傍の人は、そんな点には注意を払おうとしない」
神前で一礼することもなく、神輿や神楽を見てはやす。現代では、それがすっかりあたりまへのこととなってゐる。むろん、それを批判することはできない、時代の流れといふものであらう。
ただ、時に残念に思ふこともある。
つい最近、埼玉県南部の某神社でのできごとだった。その町内出身の若手落語家が二ツ目に昇進した、といふことでの町内会主催の落語会が催された。社務所を開放しての聴衆五十人ばかりの会であった。が、同門の噺家や女性漫才も加はって、それなりのにぎはひとなった。
そのとき、隣接する拝殿の扉が閉められたままであったのだ。
まさか、祭礼時以外は開けないといふ決まりがあるわけでもなからう。平常は宮司不在の神社ではあったが、そこには総代を務める人たちも参加してゐたはずである。余談ながら、その場には同じ町内に住むといふ市長もみえてゐた。後で聞いたところでは、社務所に入る前に神前で一礼なさったさうである。
拝殿の扉が開けられてゐるべきであらう。ならば、噺家たちも一礼、町内会の人たち(多くが氏子)も一礼して会場に向かふのが順路となるのではあるまいか。とくに、若者や子供たちが目にとめることが大事なのではなからうか。
さう思ったのは、私一人だけだらうか。文化伝承の大事な機会なのに、何とももったいない逸脱であったやうに思ふのである。
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)
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